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おんがく小噺「若き日のベートーヴェン」

1770年12月16日ごろに、この世に生を受けたとされる楽聖。

残された作品の素晴らしさは、説明するまでもなく。
一方で、その人生の道のりは苦難もおおかったことは、ご存知でしょう。

一般的には、耳が聴こえないにも関わらず、誰もが知る作品を残した、その偉大さに畏敬の念を禁じ得ないと。
事実、苦悩したベートーベンは、自殺まで考えて有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」まで残したと。

しかし、それと同等、もしかしたらそれ以上に苦しいことも、ベートーベンにはあったのではないか、と私個人が思うことがあります。

それは、1792年、21歳までのベートーベンについて。

幼い時から、ベートーベンはボンの宮廷歌手だった父から夜な夜な、虐待とも現在では取れるような、酔いに任せた厳しいレッスンを受けていたとされています。
おそらくは、ままならない人生の当たりどころのない思いを、息子であるが故に受け止めてしまうような日々だったのではないかと思われます。
しかし、天分は囊中の錐の如く外に飛び出します。

1787年、ベートーベンはウイーンに旅行して、モーツァルトと会うことができた。その席で、褒められたとか激賞されたとか、一般的な伝記に残されてます。
しかし、彼の元には

ハハキトク

の知らせが。
後ろ髪引かれるような思いで、ボンに戻ったことでしょう。
母の最期を看取り、折悪しく、アル中のためとも伝えられる父の失職、遺された幼い弟たちの育児も並行して、まだ若きベートーベンの双肩にかかってきます。
それから後の、ベートーベンの心中を察するに、どれだけの絶望感と、失ってはならない希望との狭間で、揺れる気持ちを抱えていたことでしょうか。
今で言えば、介護と看取り、そして育児が同時並行で高校生の身に降りかかったようなもの。

…5年後の1792年、ロンドンでの成功の帰路にあるハイドンと面会する機会を得て、ウイーンで弟子入りを21歳のベートーベンは許可されます。

この時、面会に臨む彼の心境は、その後のどんな舞台よりも緊張感を孕んだものだったのではないでしょうか。

そして、同年11月、勇躍ウイーンに旅立ちます。
翌月12月に、ボンで父親が亡くなってます。

複雑な心情が見出せる一面があります。

ベートーベンは、母の時とは異なり、父の死に際してボンに帰った記録は、見いだせません。

2023年03月28日

よもやま話「なぜイタリア語が音楽用語の中心に?」

「なぜイタリア語が音楽用語の中心に?」

何を初歩的なことをいまさら言っているのだろう?と思われても仕方ないのですが、まだ納得できないこともあり、是非、ご存じの方はご教授ください。

ルネサンス以降、芸術の中心がイタリア故に、全ヨーロッパに音楽が広まるにつれてイタリア語が音楽用語として定着したと。

自分自身、よく例えに出すのが、柔道で国際大会があっても全て日本語で審判されます。これは柔道が日本で成立して世界に広まったから、日本語で行うと。フェンシングにおけるフランス語もしかり。

ルネサンスから、前期バロックと呼ばれる時代には、確かにイタリア系の作曲家で名を残す人々がたくさんいらっしゃいます。

パレストリーナしかり、モンテヴェルディしかり、コレルリ、そしてフランスに渡って活躍した人としてはリュリ。

ただ、16世紀から18世紀にかけて、イタリアという地域は政治的にどうであったか。

1527年には、当時絶頂期にあったハプスブルクのカール5世によって、ローマはずたずたにされます(『ローマ劫掠』)。1600年代のイタリアの勢力図を見ると、南部と現在のミラノはスペインにがっちり占領されており、ローマを中心とする教皇領の他には、ヴェネチアやジェノヴァなどの共和国が存在しながら、当時としては民主的な政治(ヴェネチアにおけるドージェの選出など)を行っていたようです。

何しろ、16世紀初めのころからマキャベリが『君主論』など記し、かつての栄華を偲んだりと、現実世界においては、勢力にことかけている状態が見え隠れします。
ヴェネチア共和国においても、1669年までの長い戦役でオスマントルコからクレタ島を奪われたり、1630年頃には黒死病の流行に見舞われたり、と安定しているように見られながら、やはり災厄からは逃れられず。

同時期、フランスを見ると、はるかに政治的に安定しているようには見えます。
ルイ14世の下、リシュリューやマザランという有能な官吏を使いこなし、リュリを重用し音楽と舞踏(バレエ)の発展をもたらし、と。
マザランとリュリはイタリア出身とはいえ、なぜにフランス語圏の用語が音楽の中心にならなかったのだろうか、と不思議になります。

1533年にカトリーヌ・ド・メディシス(メディチ)が輿入れしたときも、かなり当時のフランス宮廷からは、かの絶頂期のメディチ家とはいえ軽くみられていたような記録もあるし、決してイタリアの文化に対して盲目的な尊敬をフランスがもっていたとは思えないのです。

フランス語での音楽用語も用いられていましたが、結局イタリア語が主流になっていくのはご存じの通りで、未だによくわかりません。

J.S.バッハに100年ちょうど先んじて1585年に生を受けた、ハインリヒ・シュッツはヴェネチアに二度留学し、ガブリエリとモンテヴェルディに師事した、という事実だけで、イタリア音楽がドイツで隆盛を誇った、とも言いがたい…。そもそも、シュッツが活躍した頃にはドイツは三十年戦争で人口が1/3に減少するなど、音楽に集中できていたの?と思う節もあるし。

とにかく、わからない、ということばかり。
勉強したらもっとわかるようになるのかな、と思って蟷螂の斧を振るっているけど、わからないことの方が加速度的に増えていくばかりです。

2023年02月26日

今年初めの智隆先生によるよもやま話し

「音楽家とは忙しいもの」

マーラーの生活状況をみると、多忙さは本当に想像を絶するものではなかったかと思います。
ウィーンの歌劇場に勤めてから、毎朝9時には歌劇場入りしていたとのこと。
もちろん毎日指揮していたわけではないにしろ、公演日は深夜までが現在でも普通ですから、本当に打ち込みたかった作曲には、夏の休みの期間をあてていたようです。
このあたりはブラームスの生活サイクルにも似ています。

ウィーンに本拠地を置きながら、自作の交響曲の初演はウィーン以外の各地で行われていることも興味深い。
シーズン中でも、初演ができるとなればウィーンを頻繁に離れていたようで、この辺はモーツァルトのザルツブルグ時代をちょっと彷彿とさせます。
第9番のみ、ウィーンで初演されましたが、それはマーラーの死後、ブルーノ・ワルターによるものだったというのは皮肉としか言いようがないです。

NYのメトロポリタン歌劇場の指揮者の職も2期受けますが、これは専念したい作曲活動ができる時間を作るために、無理をおして行いました。
作曲のための自由時間を作るため、引き受けられたくらいだから、相当なギャラだったんだろうな、という下世話な興味もあります。

一方、そこまで指揮者として音楽界で広く認められながらも、なお作曲に打ち込もうとする姿勢には鬼気迫るものも感じました。

ブダペスト時代には、モーツァルト「ドンジョバンニ」を指揮していたときにたまたまブラームスが鑑賞していて、「本物のモーツァルトを聴きたければ、ハンガリーの首都に行くべきだ」と吹聴したとか。
その指揮者としての能力を賛美する声は、現在でもあまた見受けられます。
間違いのない、すばらしい指揮者だったのでしょう。

当時は、ヨーロッパ全土に鉄道網が張り巡らされてきたとはいえ、まだ飛行機のない時代、アメリカとの往復はこたえたことだろうと思います。
結局、心臓の病が発覚して、ウィーンに戻ることになるのですが…それが死に至る病だとは、悔しかっただろうなと察します。

「音楽家という仕事は忙しいもの、仕事は選んではいけない」と師匠に言われたことは忘れられません。

音楽史を通じて、やはり大作曲家達は皆すごい忙しい思いをして、創作していたということ、改めて浮き彫りになりました。

僕も、非才ながらに自分のおかれている状況が忙しい、と感じること、やはりあります。

でも、ライプチヒに来て毎週新作のカンタータを作って上演していたJ.S.バッハ、ウィーンに出てきてから朝5時に起床してカツラを整え、早朝からレッスン、昼はゲネプロ夜本番の毎日で新しい曲を次々と生みだしたモーツァルト、女性関係や借金の繰り返しで混乱の極みともいえる私生活の中から、画期的な作品を出し続けたベルリオーズやワーグナー、38歳にして教職をなげうちオルガニストになったブルックナーなど、ぱっと思い浮かべただけでも、もう何も愚痴がいえないです。

いや、比較すること自体がおかしい、ということはわかっていますけど…。

2023年01月08日

知恵子先生の講座をご紹介♪

知恵子先生による音感プログラム

音感プログラムは、音楽を通して音の高低、長短、強弱などを聴覚や視覚、触覚で感じてもらうことを目的としています。繰り返し聴いたり観たり、音楽に合わせてお子様に触れてあげることにより、自然に音感を付けるプログラムになっています。
リトミックを行うことが出来ない乳児期より、音の変化を感じることで、リトミックの3つの柱である体を動かす(リズム)、ソルフェージュ(歌う力)、創造を生み出す即興演奏の力を養う事の基礎作りを目指しています。
音楽を鑑賞したり、演奏するためには、技術的なものだけでなく、感性を養うことが大切です。感性を養い音楽を楽しむことができれば、悲しみは二分の一に喜びは二倍に感じると思います。音楽は、皆さんの人生の味方なのです。
 また、親子で共有して頂くことで、信頼感も増し、より心豊かな感性を養う事ができると考えます。
*絶対音感を身につけるプログラムではありません。

蒲原生涯学習センター にて

アイセル21 葵生涯学習センターにて


2022年12月21日

音楽小噺「はじめてのギャラの思い出」

僕が初めてお金をもらって演奏の仕事をしたのは、高校1年生のことだった。

当時住んでいた藤沢で、アマチュアオーケストラのメンバーを中心に声かけがなされて、特に所属団体もなかったにもかかわらず、フルートの方から頼まれてメンバーに加わった。
社会人ばかりの中で唯一の高校生での参加だった。

なんとオペラで、「道化師」と「カヴァレリア・ルスティカーナ」だった。
特にカヴァレリアでは、1stフルートを任せてもらえた。
ただ、手書きのパート譜で、判読することにまずかなりの手間をかけさせられたことには閉口したけど。
(なぜか「道化師」のほうはレンタル譜だった。青いインクの印鑑がイタリア語で表紙に打たれていて、それなりに威厳を感じたものだった。)

何が何だかさっぱりわからないままに悪戦苦闘して、指揮者の先生のお宅にレコードを借りに伺って勉強をしたけど、オペラを聴いたことすらなかった自分には、猫に小判のようなものだった。オペラのスコアを用意するなんて考えも浮かばなかった。
駅前の楽器屋さんでは、いくつかのシンフォニーや管弦楽のスコアしかなかった。

藤沢で練習が重ねられたのだけど、本番はなぜか静岡だという。
静岡市民文化会館での、オペラ公演のために自分たちは集められたらしい。

本番前日、バスにみんなで乗り合わせて、ゆっくりと静岡に向かった。
道中のことは全く覚えていない。たぶん緊張していたんだと思う。

ゲネプロというか練習で、ピットに入って演奏する、ということをこれも初めて知った。というか、薄い暗がりの深い穴のことをピット、と呼ぶことさえ知らなかったというほうが正しい。

手書きの写譜が一層目に厳しい…。

実際の所、全然吹けなかった。レコードで聞いていて、ソロの部分だけは落ちずに吹いたと思うけど、全体のところは何がなにやらさっぱりわからないまま、本番も過ごしてしまったと思う。

前夜入りして、オーケストラのメンバーの方々と一緒に夕食(というか大人の皆さんは飲み会)についていった。
今思うと、ちょうど静岡駅を背にしてパルコがあるあたりから両替町のあたりをあるいて移動していたと思う。

そこで、いわゆるホームレスの方とすれちがった。
なんか得体の知れないものを、素手で口にいれながら、もぐもぐと口を動かし暗い目でリヤカーを歩きながらひいていた。

当時、音楽の道に進もうかどうか悩んでいて、高校では自ら強いて運動部に入部したりしてあきらめようか、ともしていた。

「音楽の世界は食えないから」
たくさんの人にそう忠告された。
だから、そのときすれ違ったホームレスの方の姿をみて、「将来、(音楽に進んだら)自分もそうなるのかな」と心に浮かんだことが、最も強烈な記憶として残っている。

本番でどんな演奏をしたか、とか、舞台進行がどうだったか、とか全く記憶に残っていない(舞台に関してはそりゃそうだ、オペラなんだから見えるわけがない)。

終わった後(ゲネプロの後かもしれないけど)ギャラをもらえた。
白い封筒だった。一万円入っていた。
一万円札は、お年玉でもみることはほとんどなかった自分にとっては、ものすごい大金だった。けど、前夜のことが強烈に残っていたので、幾分冷めていた部分もあったと思う。

高校時代は、結局、無理してはいった運動部は途中で辞めてしまい、結局音楽の大学に進むことになり、縁があって静岡の大学に勤務することができた。

大学に勤務することになったので、それまでの「業績」の提出が求められたので演奏会のプログラムとかを、洗いざらいひっくり返して整理した中に、その静岡のオペラ公演のプログラムがあった。

プログラムを開いてみると、冒頭の挨拶を勤務先の当時の理事長が祝辞を寄せていて、主役が勤務先に(当時)務めていた先生だった。

初めて演奏でお金をもらった本番の土地で、就職することになった偶然と不思議な縁に、本当に驚きの気持ちを持ったことを、思い出す。

2022年12月07日

おんがく小噺「ウェーバーを通してみる19世紀貴族の生活」

ウェーバー個人でいうと、お父さんは爵位を持っていて、その証拠にウェーバー自身名前に「von」がついており、これは貴族の由来だと聞いております。
片や、おじさん(父の実兄)は爵位を持たず、マンハイムで宮廷歌手(のみならず、舞台関係全般の仕事を様々にこなす)になっていると。
ちなみに、このおじさんの娘4人のうち、アロイジア・ウェーバーがモーツァルトが恋い焦がれた女性であり、その姉妹であるコンスタンツェと後に結婚するわけで、モーツァルトとC.M.ウェーバーは親戚関係なのはよく知られた話ですね。

(アロイジアに恋をしていた時期に、マンハイムでモーツァルトはフルートの作品の作曲をオランダ人から依頼を受けるのですが、なかなか筆が進まず父から怒られたり、いいわけとして「僕はフルートが嫌い」という言葉が手紙にでたりとするのはまた別の話)。

つまり、爵位を兄がつがないで音楽家になり、弟がついだ形です。
ここが、個人的にしっくりこないのです。

古き時代であれば、日本も西洋も基本的に長子が家を継ぐはず。
でも、ウェーバー家の場合、兄は爵位を持たないで音楽家になり、弟が爵位をついで、C.M.ウェーバーを息子に持つわけです。

そして、ウェーバーは、お父さんが50歳を過ぎてから、30歳年下の奥さん(先妻が亡くなったあとの後妻さん)との間に生まれた子でした。

もちろん、先妻さんの間にも、子供はいて男子が2人、いたそうです。

で、お父さんは、この二人に音楽教育(ハイドンに弟子入りさせたとか)するのですが、大成せず。
この、後妻さんとの間のウェーバーに期待をかけて、生まれた年に劇団をつくったくらいだとか。

このあたり、モーツァルトはじめとする、ステージパパの姿が見受けられるのが興味深い。

しかし、なぜこうまでしたお父さんはウェーバーに、そして先妻さんの子供達にも音楽の英才教育を施そうとしたのか。

昔は、貴族に雇われ使われる存在だった音楽家という職人的な職業の価値観が、この頃から変化し始めたのかな、と勝手に憶測しています。
つまり、貴族であることの大変さ(=民主化の進行、戦争、内乱の時の身の処し方)と、音楽家の社会的地位、名誉の向上が、人生を過ごす上で比較検討されるくらいになってきたのかな、と。

そして、音楽家になった兄に対する、弟のコンプレックスが、このようにあきらめない英才教育の継続にもつながったのかな、などと勝手な想像で思いを巡らしました。

ウェーバーは「魔弾の射手」の大ヒットによって、最後のオペラ「オベロン」をイギリス(コヴェントガーデン)から依頼されます。すでに病気に冒された身でありながら、無理をおしてロンドンに行き、その地で客死します。
途中、パリではロッシーニに面会を求めるのですが、一説には職の斡旋を相談したとかという話もあります。真偽はわかりません。

貴族の家に生まれながらも、決して楽な生活ではなかったようです。

一方、メンデルスゾーンは3年近く遊学できる財力が実家にはあったり、と比べて考えるとバロックの頃に存在した貴族社会の没落を、個人的には感じてしまいました。
想像力というより、妄想に近いかもしれませんが…。

 

2022年11月08日

おんがく小噺 「レクイエムとハロウィーン」をアップしました。

「レクイエムとハロウィーン」

11月1日はキリスト教において諸聖人の祭日である「万聖節(ばんせいせつ)」と呼ばれる特別な祝日となります。キリスト教を信じて、身を捧げた(殉教含む)死者達の記念の日です。翌、11月2日はすべてのなくなったキリスト教徒達を記念する日として、諸死者の祝日「万霊節(ばんれいせつ)」とされています。その2日連続の祝日を前にして、前夜祭を行う風習が、特にアメリカを中心にして発展しました。「諸聖人の祝日の前夜=All Hallows eve(n)」が短縮されて、10月31日がHalloween(Hallowe'enとも)になったとのことです。ちなみに、その10月31日には死者の霊が家族のもとに向かう、とされているのですが(日本のお盆に似ていますね)、時期を同じくして悪霊や魔女達もわきいでてしまうため、身を守るために一晩中魔除けの火をたいて、仮面をつけるようになったとのことです。カボチャをくりぬいた、怖い顔の飾り付けも同じ意味です。そして、11月2日の万霊節において、ミサが行われるのですが、冒頭で歌われる入祭唱の歌詞が「永遠の安息を=requiemaeternum」(レクイエム・エテルヌム)で始まります。そのため、このミサのために書かれた曲を「レクイエム」と呼ばれるようになり、その後、葬儀のために作られるミサ曲全般が「レクイエム」と呼ばれ、11月2日に限らず演奏する習慣が広まったとのことです。

2022年10月12日