よもやま話「なぜイタリア語が音楽用語の中心に?」

「なぜイタリア語が音楽用語の中心に?」

何を初歩的なことをいまさら言っているのだろう?と思われても仕方ないのですが、まだ納得できないこともあり、是非、ご存じの方はご教授ください。

ルネサンス以降、芸術の中心がイタリア故に、全ヨーロッパに音楽が広まるにつれてイタリア語が音楽用語として定着したと。

自分自身、よく例えに出すのが、柔道で国際大会があっても全て日本語で審判されます。これは柔道が日本で成立して世界に広まったから、日本語で行うと。フェンシングにおけるフランス語もしかり。

ルネサンスから、前期バロックと呼ばれる時代には、確かにイタリア系の作曲家で名を残す人々がたくさんいらっしゃいます。

パレストリーナしかり、モンテヴェルディしかり、コレルリ、そしてフランスに渡って活躍した人としてはリュリ。

ただ、16世紀から18世紀にかけて、イタリアという地域は政治的にどうであったか。

1527年には、当時絶頂期にあったハプスブルクのカール5世によって、ローマはずたずたにされます(『ローマ劫掠』)。1600年代のイタリアの勢力図を見ると、南部と現在のミラノはスペインにがっちり占領されており、ローマを中心とする教皇領の他には、ヴェネチアやジェノヴァなどの共和国が存在しながら、当時としては民主的な政治(ヴェネチアにおけるドージェの選出など)を行っていたようです。

何しろ、16世紀初めのころからマキャベリが『君主論』など記し、かつての栄華を偲んだりと、現実世界においては、勢力にことかけている状態が見え隠れします。
ヴェネチア共和国においても、1669年までの長い戦役でオスマントルコからクレタ島を奪われたり、1630年頃には黒死病の流行に見舞われたり、と安定しているように見られながら、やはり災厄からは逃れられず。

同時期、フランスを見ると、はるかに政治的に安定しているようには見えます。
ルイ14世の下、リシュリューやマザランという有能な官吏を使いこなし、リュリを重用し音楽と舞踏(バレエ)の発展をもたらし、と。
マザランとリュリはイタリア出身とはいえ、なぜにフランス語圏の用語が音楽の中心にならなかったのだろうか、と不思議になります。

1533年にカトリーヌ・ド・メディシス(メディチ)が輿入れしたときも、かなり当時のフランス宮廷からは、かの絶頂期のメディチ家とはいえ軽くみられていたような記録もあるし、決してイタリアの文化に対して盲目的な尊敬をフランスがもっていたとは思えないのです。

フランス語での音楽用語も用いられていましたが、結局イタリア語が主流になっていくのはご存じの通りで、未だによくわかりません。

J.S.バッハに100年ちょうど先んじて1585年に生を受けた、ハインリヒ・シュッツはヴェネチアに二度留学し、ガブリエリとモンテヴェルディに師事した、という事実だけで、イタリア音楽がドイツで隆盛を誇った、とも言いがたい…。そもそも、シュッツが活躍した頃にはドイツは三十年戦争で人口が1/3に減少するなど、音楽に集中できていたの?と思う節もあるし。

とにかく、わからない、ということばかり。
勉強したらもっとわかるようになるのかな、と思って蟷螂の斧を振るっているけど、わからないことの方が加速度的に増えていくばかりです。

2023年02月26日