音楽小噺「はじめてのギャラの思い出」

僕が初めてお金をもらって演奏の仕事をしたのは、高校1年生のことだった。

当時住んでいた藤沢で、アマチュアオーケストラのメンバーを中心に声かけがなされて、特に所属団体もなかったにもかかわらず、フルートの方から頼まれてメンバーに加わった。
社会人ばかりの中で唯一の高校生での参加だった。

なんとオペラで、「道化師」と「カヴァレリア・ルスティカーナ」だった。
特にカヴァレリアでは、1stフルートを任せてもらえた。
ただ、手書きのパート譜で、判読することにまずかなりの手間をかけさせられたことには閉口したけど。
(なぜか「道化師」のほうはレンタル譜だった。青いインクの印鑑がイタリア語で表紙に打たれていて、それなりに威厳を感じたものだった。)

何が何だかさっぱりわからないままに悪戦苦闘して、指揮者の先生のお宅にレコードを借りに伺って勉強をしたけど、オペラを聴いたことすらなかった自分には、猫に小判のようなものだった。オペラのスコアを用意するなんて考えも浮かばなかった。
駅前の楽器屋さんでは、いくつかのシンフォニーや管弦楽のスコアしかなかった。

藤沢で練習が重ねられたのだけど、本番はなぜか静岡だという。
静岡市民文化会館での、オペラ公演のために自分たちは集められたらしい。

本番前日、バスにみんなで乗り合わせて、ゆっくりと静岡に向かった。
道中のことは全く覚えていない。たぶん緊張していたんだと思う。

ゲネプロというか練習で、ピットに入って演奏する、ということをこれも初めて知った。というか、薄い暗がりの深い穴のことをピット、と呼ぶことさえ知らなかったというほうが正しい。

手書きの写譜が一層目に厳しい…。

実際の所、全然吹けなかった。レコードで聞いていて、ソロの部分だけは落ちずに吹いたと思うけど、全体のところは何がなにやらさっぱりわからないまま、本番も過ごしてしまったと思う。

前夜入りして、オーケストラのメンバーの方々と一緒に夕食(というか大人の皆さんは飲み会)についていった。
今思うと、ちょうど静岡駅を背にしてパルコがあるあたりから両替町のあたりをあるいて移動していたと思う。

そこで、いわゆるホームレスの方とすれちがった。
なんか得体の知れないものを、素手で口にいれながら、もぐもぐと口を動かし暗い目でリヤカーを歩きながらひいていた。

当時、音楽の道に進もうかどうか悩んでいて、高校では自ら強いて運動部に入部したりしてあきらめようか、ともしていた。

「音楽の世界は食えないから」
たくさんの人にそう忠告された。
だから、そのときすれ違ったホームレスの方の姿をみて、「将来、(音楽に進んだら)自分もそうなるのかな」と心に浮かんだことが、最も強烈な記憶として残っている。

本番でどんな演奏をしたか、とか、舞台進行がどうだったか、とか全く記憶に残っていない(舞台に関してはそりゃそうだ、オペラなんだから見えるわけがない)。

終わった後(ゲネプロの後かもしれないけど)ギャラをもらえた。
白い封筒だった。一万円入っていた。
一万円札は、お年玉でもみることはほとんどなかった自分にとっては、ものすごい大金だった。けど、前夜のことが強烈に残っていたので、幾分冷めていた部分もあったと思う。

高校時代は、結局、無理してはいった運動部は途中で辞めてしまい、結局音楽の大学に進むことになり、縁があって静岡の大学に勤務することができた。

大学に勤務することになったので、それまでの「業績」の提出が求められたので演奏会のプログラムとかを、洗いざらいひっくり返して整理した中に、その静岡のオペラ公演のプログラムがあった。

プログラムを開いてみると、冒頭の挨拶を勤務先の当時の理事長が祝辞を寄せていて、主役が勤務先に(当時)務めていた先生だった。

初めて演奏でお金をもらった本番の土地で、就職することになった偶然と不思議な縁に、本当に驚きの気持ちを持ったことを、思い出す。

2022年12月07日